前回は「「現代のスパルタ教育」と「のびのび教育の反対」〜中高の教育方針・成績順位の公表の是非・学びへの意欲の刺激と競争心〜」の話でした。
若き霞ヶ浦航空隊を激励した山本校長:戦艦と航空隊の未来

上の写真は、山本五十六が霞ヶ浦航空隊副長兼校長の頃の写真です。
山本五十六の写真は多数ありますが、筆者が最も好きな山本の写真の一つです。
第二次世界大戦の時、「大日本帝国海軍の顔」を超えて「大日本帝国の顔」の一角であった山本。
連合艦隊司令長官としての山本五十六の能力に関しては、様々な議論があります。
緒戦で大勝利を続けていた大日本帝国海軍は、ミッドウェー海戦で致命的大敗北となりました。

戦は
勢いだ!



ミッドウェーを
攻撃し、米空母を撃滅する!
ミッドウェー海戦を強行した山本長官に対しては、



山本五十六は
凡将だ!



いや、むしろ、山本五十六は
愚将だ!
山本長官の指揮能力に対しては、「凡将」「愚将」と表現する歴史家・戦史家もいます。
一方で、山本五十六が極めて高い人格者であった事実は、間違いないことです。
山本五十六の写真は多数残されていますが、どの写真を見ても「瞳の奥に哀しみ」を感じさせます。
上の山本五十六の写真は、その「山本の瞳の哀しみ」が最も強く出ている写真の一つです。
仮に、この表情をした山本が「目の前に立っている」としたら、



・・・・・



・・・・・
多くの日本人は、「言葉を失ってしまう」と考えます。
ある意味で「慈愛に満ちた表情」とも表現できます。
この頃、霞ヶ浦航空隊副長兼校長というポジションにいて、海軍航空の若手を育てた山本。



みんな!
これからは航空隊の時代だ!



我が帝国海軍の
主力は戦艦ではなくなるのだ!



そのためにも、諸君には
奮起して頑張ってもらい・・・



帝国海軍の大いなる
力となってもらいたい!
そして、「航空隊の中核」を担う霞ヶ関航空隊で、若き隊員たちを激励しました。
山本が霞ヶ浦航空隊副長兼校長に就任したのは1924年で、山本五十六が41歳の頃でした。
若者育成に「うってつけの校長」だった山本五十六


この1924年の頃は、まだまだ航空隊の潜在力に対しては、世界中で懐疑的な視点が強い時代でした。



確かに
航空隊の潜在力は強力だが・・・



航空隊を空母に乗せて、
航空隊を戦力にすることは可能だ・・・



だが、航空隊で
戦艦などに対抗できるのだろうか・・・
海軍兵学校を卒業後、海軍省を中心に活躍していた山本五十六。
組織 | 総責任者 | 権限 |
海軍省 | 海軍大臣 | 軍政(人事・兵站など) |
軍令部 | 軍令部総長 | 軍令(作戦指揮) |
連合艦隊 | 連合艦隊司令長官 | 前線の作戦指揮 |
当時の大日本帝国海軍では、海軍省・軍令部・連合艦隊に大きく組織が分かれていました。
他には、鎮守府などは連合艦隊とは別の組織でしたが、戦争末期に統合されました。
米国駐在などの海外経験も豊富だった山本五十六は、極めて早い時期に「航空隊の未来」を見ていました。



必ず、必ず、
航空隊は主力となるだろう・・・



現在の世界の海軍の
主力である戦艦は・・・



航空隊に取って代わられる
時代が来るであろう・・・
1924年頃、実は、大英帝国海軍と大日本帝国海軍が最も航空隊に力を入れていました。
そして、大英帝国海軍と大日本帝国海軍が相次いで、「世界初の空母」を誕生させたのが、この頃です。
実は、「世界初の空母を完成させた」のは大日本帝国でした。


起工(着工)時点から「新造空母」として1922年に「世界初」で完成した空母 鳳翔。
この「世界初」に関しては諸説ありますが、最初は「大英帝国か大日本帝国のどちらか」です。



世界初って、
日本は結構すごいんだね。



明治維新から50年で
ここまで来たんだね・・・
1968年の明治維新後、「欧米に追いつけ、追い越せ」で猛烈に国力を挙げた大日本帝国。


日本海海戦で、東郷平八郎連合艦隊司令長官が座乗した旗艦・戦艦三笠は大英帝国製でした。
つまり、日露戦争の頃は「大日本帝国には、強い戦艦を製造する技術力」がありませんでした。
1905年の日本海開戦後、17年後の1922年には「世界初の空母製造」に漕ぎ着けた大日本帝国。
そして、この「大英帝国か大日本帝国か」は、当時の歴史的背景があります。


「月とスッポンの結婚」と揶揄された、日英同盟が締結された1902年。
幕末から大英帝国とは「仲良し」だった大日本帝国は、世界一の強国と「対等同盟」を締結しました。
そして、20年以上「仲良し」だった大日本帝国と大英帝国。
おそらく、「世界初の空母建造」の頃は、盛んに情報交換をしていたのでしょう。
1923年に、日米英仏の四カ国条約発効に伴い、残念ながら日英同盟は破棄されました。



とにかく空母と航空機の
生産を最優先だ!



そして、空母から
発艦する航空隊を操る若手がたくさん必要だ!



みんな、
頑張ってくれ!



はいっ!
山本校長!



僕たち、
頑張って精進します!
20前後の若者たちを叱咤激励していた、山本霞ヶ浦航空隊副長兼校長。
「若者たちを束ねる校長」として、山本は「うってつけの校長」でした。
当時、世界の陸海軍を見渡しても、山本ほど「うってつけの校長」は五本の指に満たなかったでしょう。