前回は「鈴木首相「軍部が無理強いに答弁させた」〜陸軍より弱い?海軍・ベテラン海軍大将の本心・超ベテラン海軍大将鈴木貫太郎・連合艦隊司令長官+軍令部総長+海軍次官〜」の話でした。
海軍退役後に侍従長となった鈴木:昭和天皇の極めて厚い信頼から鈴木内閣へ

ポツダム宣言発令の1945年7月26日の2日後、鈴木貫太郎首相は、
鈴木貫太郎この宣言は重視する
要なきものと思う。
こう述べた、と自ら明かしています。


これは、敗戦(終戦)翌年に鈴木貫太郎自身が語っていることであり、信頼性は高いです。
その一方で、



ポツダム宣言に関しては、
これを黙殺する。



あくまで戦争遂行に
邁進する。
「黙殺+戦争遂行邁進」と語った、とも伝えられる鈴木首相の談話。
「重視する要なき」と「黙殺+戦争遂行邁進」では、ニュアンスが全く異なります。
この点の検証は別として、まずは経緯を明らかにしたいと思います。



この一言を余に無理強いに答弁させた所に、
当時の軍部の極端なところの抗戦意識が・・・



如何に冷静なる判断を欠いていたか、が
判るのである。
軍部(主に陸軍)に「無理強いに答弁させられた」と言った鈴木首相。


元海軍軍人であり、連合艦隊司令長官と軍令部総長を務めた歴戦の海軍将校だった鈴木貫太郎。
元海軍軍人でありながら、「帝国陸軍に脅迫された」結果、「この一言を余に無理強いした」と言っています。
77歳の高齢とは言え、若い頃から軍人を目指し、特別の「軍人教育」を受けた鈴木貫太郎。
| 海兵卒業期 | 名前 | 生年 | 役職 |
| 14期 | 鈴木貫太郎 | 1868年 | 内閣総理大臣 |
| 29期 | 米内光政 | 1880年 | 海軍大臣 |
| 29期 | 藤田尚徳 | 1880年 | 侍従長 |
| 32期 | 嶋田繁太郎 | 1883年 | 前・海軍大臣 |
| 32期 | 山本五十六 | 1884年 | 戦死(連合艦隊司令長官) |
| 33期 | 豊田副武 | 1885年 | 軍令部総長 |
もちろん、海軍兵学校を卒業し、日清・日露戦争をくぐり抜けた鈴木は、当時は圧倒的存在でした。
海軍兵学校の五省に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
「海軍将校育成機関」であった海軍兵学校では、猛烈な「軍人教育」が行われました。
連合艦隊司令長官などを経た鈴木貫太郎は、海軍退役(予備役)後、1929年に侍従長に就任しました。


1945年当時、侍従長であった藤田尚徳の「侍従長の回想」を紹介していますが、同じ侍従長です。


1901年生まれの昭和天皇が、28歳の若者だった頃に侍従長に就任した鈴木貫太郎。
昭和天皇の信任が極めて厚く、この事実が「1945年鈴木内閣成立」につながります。
陸軍将校に殺されかけた鈴木貫太郎:「二・二六」の襲撃と三発の銃撃


鈴木貫太郎が侍従長であった1936年2月26日未明、日本全土が大震撼した極大事件が勃発しました。
「二・二六事件」です。



我ら陸軍将校は
決起するのだ!
「二・二六事件」、「五・一五事件」は、事件の名称は多くの人がご存知と思います。
その一方で、「二・二六事件」、「五・一五事件」の詳細を知っている人は、極めて少数と考えます。
中学受験から大学受験において、「二・二六事件」、「五・一五事件」が題材となることはありません。
それは、「問題を作成する題材に相応しくない」点があるから、と考えます。
陸軍若手将校たちが決起した「二・二六事件」は、若い将校たちがそれぞれの理念に燃えた事件でした。
決起した将校の一人が、安藤輝三(あんどう てるぞう)大尉でした。
安藤大尉は、部下と上司から極めて信任が厚く、優れた軍人でした。
「二・二六事件」では、安藤輝三大尉は鈴木侍従長殺害に向かいました。
2月26日未明に、鈴木侍従長邸に乗り込んだ安藤輝三大尉率いる部隊。



鈴木閣下で
ありますか?
鈴木侍従長に対して、こう問いかけました。
「閣下」というのは、 日常ではあまり使用しませんが、一定のレベル以上の政府関係者に対する言葉です。



そうだ、
私が鈴木だ。



何事がおこって
こんな騒ぎをしているのか・・・



話したら
いいじゃないか・・・



鈴木閣下、
お生命頂きます!



パン、パン、
パン!
そして、安藤率いる下士官は、鈴木侍従長に至近距離から三発の銃撃を撃ちました。



・・・・・
銃撃を受けた鈴木侍従長は、倒れ込みました。



とどめを
刺させて頂きます。
倒れた鈴木侍従長は「即死」と思われましたが、なお「とどめ」を刺そうとする安藤大尉に対し、



お待ち
下さい!



老人ですから、
とどめはお止め下さい。



・・・・・



分かりました・・・
鈴木夫人の必死の静止に対して、安藤大尉は「とどめを中止」しました。



とどめは残酷だからよせ、
鈴木貫太郎閣下に敬礼する。



気をつけ、
捧げ銃!
人を殺しておいて敬礼も何もありませんが、安藤大尉なりの礼儀でした。
「捧げ銃」は、陸軍軍人の「相手への大いなる敬意」を示します。



誠にお気の毒なことを
致しました・・・



我々は閣下に対しては、
何の恨みもありませんが・・・



国家改造のためにやむを得ず、
こうした行動をとったのであります。



・・・・・



あなたの
名前は?



安藤・・・
輝三・・・
こう言い残して、安藤大尉率いる一隊は去ってゆきました。



・・・・・
ここで、「九死に一生」を得て、かろうじて存命した鈴木侍従長。
この点は、「安藤大尉が鈴木侍従長を殺す気持ちがなかった」説が有力です。
筆者もまた、「安藤大尉は鈴木侍従長を殺す気持ちがなかった」と考えます。
軍人が丸腰の相手に対して、至近距離から三発も銃撃して「殺せない」はずはないからです。
いずれにしても、「殺されかけた」鈴木貫太郎は、「死の恐怖」を身近に感じたでしょう。
「丸腰のなか、間近で銃撃された」鈴木貫太郎。
「殺されかけた」というよりも、「ほぼ殺された」と表現しても良いと考えます。



余は
助かったが・・・
鈴木首相の脳裏に、「殺される恐怖」が焼きついてしまったのもやむ得ません。
その結果、1945年7月28日、



軍部は、この一言を
余に無理強いに答弁させた・・・
軍部・軍人に「無理強い答弁」をさせられた鈴木首相。
それは軍人であろうと、人間である以上、やむ得ないことだったと考えます。


