鈴木首相「軍部が無理強いに答弁させた」〜陸軍より弱い?海軍・ベテラン海軍大将の本心・超ベテラン海軍大将鈴木貫太郎・連合艦隊司令長官+軍令部総長+海軍次官〜|ポツダム宣言から敗戦の真相9

前回は「鈴木貫太郎「終戦の表情」が明かす真相〜「重視する要なきもの」・昭和天皇に常に近侍した侍従長・「朝廷」のような存在だった宮中〜」の話でした。

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鈴木首相「軍部が無理強いに答弁させた」:陸軍より弱い?海軍

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鈴木貫太郎 内閣総理大臣(国立国会図書館)
鈴木貫太郎

ポツダム宣言に関しては、
これを黙殺する。

鈴木貫太郎

あくまで戦争遂行に
邁進する。

1945年7月26日に発せられた、連合国の日本降伏勧告=ポツダム宣言。

その2日後の28日、当時の鈴木首相は上記のように「黙殺」「戦争遂行邁進」と答えた、と伝えられます。

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「終戦の表情」(鈴木貫太郎、新教育紀行)

その後、鈴木貫太郎首相は、昭和天皇の玉音放送が流れた8月15日に、内閣総辞職しました。

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「終戦の表情」(鈴木貫太郎、新教育紀行)

そして、降伏の翌年1946年8月に、「降伏の表情」を出版して、当時の状況を語っています。

終戦の表情

そこで、余は心ならずも、
七月二十八日の内閣記者団に会見に於いて・・・

鈴木貫太郎

この宣言は重視する
要なきものと思う。

終戦の表情

との意味を
答弁したのである。

軍部をはじめとする強硬派に押されて、「宣言は重視する要なし」と答えた、述べている鈴木首相。

「要なし」という言葉は、現在、あまり使用しないと考えますが、「必なし」という意味です。

「黙殺+戦争遂行邁進」と「重視する必要なし」では、意味が全く異なります。

なぜ、このような「発言の大きな相違」が生まれたのでしょうか。

終戦の表情

この一言は、後々に至るまで、
余の誠に遺憾と思う点であり・・・

終戦の表情

この一言を余に無理強いに答弁させた所に、
当時の軍部の極端なところの抗戦意識が・・・

終戦の表情

如何に冷静なる判断を欠いていたか、が
判るのである。

ここで、鈴木貫太郎は、

鈴木貫太郎

軍部に無理強いに
答弁させられた・・・

このように「軍部に無理強いされた」事実を明らかにしています。

「無理強い」というのは、文字通り「無理に強いる」ことであり、背景には強迫があったのでしょう。

「無理強い」の意味は、詳細を語っていませんが、鈴木首相は「ある種の恐怖」を感じたのでしょう。

ここで、鈴木首相は見方によっては「発言の責任を軍部に転嫁している」様にも取れます。

元海軍大将であり、バリバリの軍人であり、昭和天皇の信任が極めて厚かった鈴木貫太郎。

軍人でありながら、「軍部に脅迫され、無理強いされた」というのは、少し弱い様にも思われます。

海軍軍人は、陸軍軍人より弱いのでしょうか?

そんなはずはないと、筆者は考えます。

当時、77歳であり、超ベテラン海軍大将であった鈴木貫太郎。

その本心は、何だったのでしょうか。

超ベテラン海軍大将・鈴木貫太郎:連合艦隊司令長官+軍令部総長+海軍次官

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鈴木貫太郎 連合艦隊司令長官(Wikipedia)

「終戦の首相」と語られることが多い鈴木貫太郎は、実はバリバリの有能な海軍軍人でした。

海兵卒業期名前生年役職
14期鈴木貫太郎1868年内閣総理大臣
29期米内光政1880年海軍大臣
29期藤田尚徳1880年侍従長
32期嶋田繁太郎1883年前・海軍大臣
32期山本五十六1884年戦死(連合艦隊司令長官)
33期豊田副武1885年軍令部総長
海軍大幹部たち(1945年7月26日時点)

山本五十六の海兵18期上であり、帝国海軍に対して「強い睨み」を与える存在であった鈴木首相。

写真の通り、温厚な人物であった鈴木は「睨みを効かせる」性格ではありませんが、かなり強い立場でした。

役職権限
海軍大臣軍政(人事・兵站など)
軍令部総長軍令(作戦指揮)
連合艦隊司令長官最前線の艦隊指揮
帝国海軍最高幹部・権限

大きく分けて三つの組織に別れていた帝国海軍には、それぞれの長がトップでした。

上の表の通り、それぞれの権限があり、連合艦隊司令長官は海軍大臣・軍令部総長の「やや下の立場」です。

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山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

その一方で、海軍軍人・将校が「最も憧れた職は連合艦隊司令長官」という説が有力です。

これらの三つのトップは、「帝国海軍三大顕職」と呼ばれています。

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永野修身 軍令部総長(Wikipedia)

この「帝国海軍三大顕職」全てに就任したのは、歴代で、永野修身唯一人です。

日米開戦時から長く軍令部総長を務めた永野は、「対米強硬派」の一人でした。

永野もまた優れた人物でしたが、彼の連合艦隊司令長官は自ら海軍大臣の時、自ら人事権を行使して、

永野修身(架空)

憧れの連合艦隊司令長官に
なっておこうか・・・

このように「記念的気持ち」で、「自ら就任した」色彩が強いのが実態です。

それに対して、鈴木貫太郎は、「帝国海軍三大顕職」のうち堂々の二つ就任しました。

役職
海軍次官1914
軍令部長(軍令部総長)1924
連合艦隊司令長官1925
鈴木貫太郎の「帝国海軍三大顕職」就任年

海軍大臣にはならなかったものの、海軍次官まで務めた鈴木。

そして、かつては「軍令部長」という名称だった軍令部総長まで務めた人物です。

明治元年=1968年生まれの鈴木貫太郎は、9歳(現在の数え方)の時に、西南戦争勃発となります。

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西郷隆盛と西南戦争(新教育紀行)

まさに、当時の陸海軍人にとっては「大大大先輩」だった鈴木貫太郎。

そして、鈴木は日清戦争勃発時の1894年は26歳になる年でした。

日清戦争で活躍し、更に日露戦争でも活躍した鈴木貫太郎は、帝国海軍の超長老でした。

歴史の造詣も深く、世界が平和な頃、海軍で遠洋航海(遠くまで航海すること)の際には、

鈴木貫太郎

諸君に、この地の
歴史を説明しよう!

外国の寄港地にて、その地の歴史を滔々と語る鈴木に対して、

帝国海軍将校T

さすが!
鈴木さんは違う!

優等生ばかりの、帝国海軍将校たちから称賛の声が上がったほどでした。

日清・日露の砲弾をくぐり抜けた、圧倒的軍人だった海軍大将・鈴木貫太郎。

「生命の危険など、モノともしない」軍人であった鈴木でしたが、

鈴木貫太郎

軍部に無理強いに
答弁させられた・・・

自ら「軍部・軍人に脅迫された」ことを語っています。

「軍部・軍人」は主に帝国陸軍であり、帝国海軍軍人である鈴木は「つぶしが効かない」立場でした。

77歳の高齢だったとしても、

鈴木貫太郎  (架空)

俺は
海軍大将・鈴木貫太郎だ!

鈴木貫太郎  (架空)

俺を脅すとは、面白い!
受けて立つぞ!

このくらいのことを、軍人ならば言い返しても良さそうです。

ところが、そうはなりませんでした。

ここで、鈴木貫太郎首相には、「脅された恐怖」を感じざるを得ない事実がありました。

この「鈴木首相が感じた恐怖」に関して、次回ご紹介します。

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