前回は「鈴木貫太郎「終戦の表情」が明かす真相〜「重視する要なきもの」・昭和天皇に常に近侍した侍従長・「朝廷」のような存在だった宮中〜」の話でした。
鈴木首相「軍部が無理強いに答弁させた」:陸軍より弱い?海軍

鈴木貫太郎ポツダム宣言に関しては、
これを黙殺する。



あくまで戦争遂行に
邁進する。
1945年7月26日に発せられた、連合国の日本降伏勧告=ポツダム宣言。
その2日後の28日、当時の鈴木首相は上記のように「黙殺」「戦争遂行邁進」と答えた、と伝えられます。


その後、鈴木貫太郎首相は、昭和天皇の玉音放送が流れた8月15日に、内閣総辞職しました。


そして、降伏の翌年1946年8月に、「降伏の表情」を出版して、当時の状況を語っています。



そこで、余は心ならずも、
七月二十八日の内閣記者団に会見に於いて・・・



この宣言は重視する
要なきものと思う。



との意味を
答弁したのである。
軍部をはじめとする強硬派に押されて、「宣言は重視する要なし」と答えた、述べている鈴木首相。
「要なし」という言葉は、現在、あまり使用しないと考えますが、「必要なし」という意味です。
「黙殺+戦争遂行邁進」と「重視する必要なし」では、意味が全く異なります。
なぜ、このような「発言の大きな相違」が生まれたのでしょうか。



この一言は、後々に至るまで、
余の誠に遺憾と思う点であり・・・



この一言を余に無理強いに答弁させた所に、
当時の軍部の極端なところの抗戦意識が・・・



如何に冷静なる判断を欠いていたか、が
判るのである。
ここで、鈴木貫太郎は、



軍部に無理強いに
答弁させられた・・・
このように「軍部に無理強いされた」事実を明らかにしています。
「無理強い」というのは、文字通り「無理に強いる」ことであり、背景には強迫があったのでしょう。
「無理強い」の意味は、詳細を語っていませんが、鈴木首相は「ある種の恐怖」を感じたのでしょう。
ここで、鈴木首相は見方によっては「発言の責任を軍部に転嫁している」様にも取れます。
元海軍大将であり、バリバリの軍人であり、昭和天皇の信任が極めて厚かった鈴木貫太郎。
軍人でありながら、「軍部に脅迫され、無理強いされた」というのは、少し弱い様にも思われます。
海軍軍人は、陸軍軍人より弱いのでしょうか?
そんなはずはないと、筆者は考えます。
当時、77歳であり、超ベテラン海軍大将であった鈴木貫太郎。
その本心は、何だったのでしょうか。
超ベテラン海軍大将・鈴木貫太郎:連合艦隊司令長官+軍令部総長+海軍次官


「終戦の首相」と語られることが多い鈴木貫太郎は、実はバリバリの有能な海軍軍人でした。
| 海兵卒業期 | 名前 | 生年 | 役職 |
| 14期 | 鈴木貫太郎 | 1868年 | 内閣総理大臣 |
| 29期 | 米内光政 | 1880年 | 海軍大臣 |
| 29期 | 藤田尚徳 | 1880年 | 侍従長 |
| 32期 | 嶋田繁太郎 | 1883年 | 前・海軍大臣 |
| 32期 | 山本五十六 | 1884年 | 戦死(連合艦隊司令長官) |
| 33期 | 豊田副武 | 1885年 | 軍令部総長 |
山本五十六の海兵18期上であり、帝国海軍に対して「強い睨み」を与える存在であった鈴木首相。
写真の通り、温厚な人物であった鈴木は「睨みを効かせる」性格ではありませんが、かなり強い立場でした。
| 役職 | 権限 |
| 海軍大臣 | 軍政(人事・兵站など) |
| 軍令部総長 | 軍令(作戦指揮) |
| 連合艦隊司令長官 | 最前線の艦隊指揮 |
大きく分けて三つの組織に別れていた帝国海軍には、それぞれの長がトップでした。
上の表の通り、それぞれの権限があり、連合艦隊司令長官は海軍大臣・軍令部総長の「やや下の立場」です。


その一方で、海軍軍人・将校が「最も憧れた職は連合艦隊司令長官」という説が有力です。
これらの三つのトップは、「帝国海軍三大顕職」と呼ばれています。


この「帝国海軍三大顕職」全てに就任したのは、歴代で、永野修身唯一人です。
日米開戦時から長く軍令部総長を務めた永野は、「対米強硬派」の一人でした。
永野もまた優れた人物でしたが、彼の連合艦隊司令長官は自ら海軍大臣の時、自ら人事権を行使して、



憧れの連合艦隊司令長官に
なっておこうか・・・
このように「記念的気持ち」で、「自ら就任した」色彩が強いのが実態です。
それに対して、鈴木貫太郎は、「帝国海軍三大顕職」のうち堂々の二つ就任しました。
| 役職 | 年 |
| 海軍次官 | 1914 |
| 軍令部長(軍令部総長) | 1924 |
| 連合艦隊司令長官 | 1925 |
海軍大臣にはならなかったものの、海軍次官まで務めた鈴木。
そして、かつては「軍令部長」という名称だった軍令部総長まで務めた人物です。
明治元年=1968年生まれの鈴木貫太郎は、9歳(現在の数え方)の時に、西南戦争勃発となります。


まさに、当時の陸海軍人にとっては「大大大先輩」だった鈴木貫太郎。
そして、鈴木は日清戦争勃発時の1894年は26歳になる年でした。
日清戦争で活躍し、更に日露戦争でも活躍した鈴木貫太郎は、帝国海軍の超長老でした。
歴史の造詣も深く、世界が平和な頃、海軍で遠洋航海(遠くまで航海すること)の際には、



諸君に、この地の
歴史を説明しよう!
外国の寄港地にて、その地の歴史を滔々と語る鈴木に対して、



さすが!
鈴木さんは違う!
優等生ばかりの、帝国海軍将校たちから称賛の声が上がったほどでした。
日清・日露の砲弾をくぐり抜けた、圧倒的軍人だった海軍大将・鈴木貫太郎。
「生命の危険など、モノともしない」軍人であった鈴木でしたが、



軍部に無理強いに
答弁させられた・・・
自ら「軍部・軍人に脅迫された」ことを語っています。
「軍部・軍人」は主に帝国陸軍であり、帝国海軍軍人である鈴木は「つぶしが効かない」立場でした。
77歳の高齢だったとしても、



俺は
海軍大将・鈴木貫太郎だ!



俺を脅すとは、面白い!
受けて立つぞ!
このくらいのことを、軍人ならば言い返しても良さそうです。
ところが、そうはなりませんでした。
ここで、鈴木貫太郎首相には、「脅された恐怖」を感じざるを得ない事実がありました。
この「鈴木首相が感じた恐怖」に関して、次回ご紹介します。

