前回は「多数の「沈下橋」がある四万十川〜「手すりがない」沈下橋たち・「四国を囲む円」と同等の長さの四万十川・水面に映る土佐の山々〜」の話でした。
「天下の真田」の松代藩:真田幸村の本名「真田信繁」

長野県北部の松代にある松代藩・文武学校を訪問しました。
文武学校は松代藩の藩校で、江戸時代において、全国的にハイレベルで有名な藩校でした。

歴史の勉強をしていると、松代藩は、あまり登場しません。
今ひとつ「影が薄い」印象が強い松代藩。
そして、藩校・文武学校を設立したのは、遅めの1855年でした。
江戸時代、というよりも、幕末にようやく藩校を設立した松代藩。
名前は「文武」を学習するという意味で「そのまま」であり、設立が少し遅すぎでした。

実は、松代藩は、あの「天下の真田」の真田家です。
松代藩藩祖は、真田信之(信幸)であり、真田幸村(信繁)の兄です。
真田信之私、真田信之が
松代藩を興しました・・・



真田、というと、まずは
弟の幸村(信繁)ですが・・・



実は、この信之が
真田の血を後世に残したのです・・・
一般的な歴史の学びにおいて、真田信之の名前は、ほとんど登場しません。
「真田」というと、まずは真田幸村(信繁)です。



家康、
見参!
大坂冬の陣で、真田丸に立てこもって、幕軍・徳川軍に大きな打撃を与えた真田幸村(信繁)。
戦国ファンの中でも、真田幸村(信繁)はとても人気が高いです。



僕も真田幸村が
大好きだよ!
読者の小学生〜高校生の中でも、真田幸村(信繁)を好きな方が多いでしょう。
徳川家康に逆らい続け、「小さな勢力なのに、巨大勢力・徳川」に抵抗し続けた真田。
真田「幸村」の名前が有名ですが、実は「幸村」は江戸時代の講談などで作られた「嘘の名前」です。
本名は、真田「信繁」であり、実際には「幸村」と名乗ったことはありませんでした。



私の本当の名前は
真田信繁!



でも、真田幸村の名前が
有名になったので・・・



幸村って呼んでくれても
良いですぞ!
一般的な書籍では、真田「幸村」なので、ここでは真田幸村で通します。
「真田信之の真田」の質実剛健な文武学校:家康に抵抗し続けた真田


一般的に、「真田」というと、上の「真田三代:真田幸綱(幸隆)・昌幸・幸村」を指します。
武田信玄に仕え、調略で名をあげた真田幸綱(幸隆)。



この幸隆、頭を使って
城を落としましたぞ!
筆者が中高生の頃は真田「幸隆」でしたが、最近は学術面で真田「幸綱」が多いようです。
筆者は、真田「幸隆」の方がイメージが合う気がします。
そして、真田の名が一気に上がるのが、真田幸隆の三男・昌幸の代でした。



この真田昌幸、
武田信玄様から軍略を継承した!



そして、真田家代々の
独特の軍略があるのだ!
「真田代々の軍略+武田の軍略」という、戦国最強の軍略・戦略で、縦横無尽に駆け抜けた真田昌幸。



徳川家康は
大嫌いなのだ!
そして、本能寺の変後のドタバタの頃には、攻め込んできた徳川勢の大打撃を与えた真田昌幸。



2,000ほどの手勢で、
徳川8,000を打ち破ったぞ!
1585年の「第一次上田合戦」では、真田は徳川に快勝しました。
この頃、真田家は10万石ほど、対する徳川家は120万石ほどの勢力でした。
そして、時は流れて1600年の関ヶ原の戦いとなります。



また徳川に
大打撃を与えてくれる!



今回は、この幸村も
大いに戦いますぞ!
そして、徳川家の後継者であり二代将軍・秀忠の約38,000の軍を相手に戦い抜きました。
秀忠軍38,000名は、真田に翻弄され続け、「関ヶ原」に間に合いませんでした。
この戦いを「第二次上田合戦」と呼びます。





おのれ、真田・・・
一度ならず、二度までも・・・



真田昌幸、幸村親子は
切腹だ!
当然、「二度も煮湯を飲まされた」家康は激怒し、昌幸・幸村は切腹が決定しました。



家康様、ここは、
この信幸の顔に免じて、ご勘弁を!



ならぬ!
絶対に切腹だ!



そこをなんとか、
なんとか・・・
「関ヶ原」では、真田信幸は「徳川陣営」となり、「兄弟別々」となりました。
そして、徳川のために戦い続けた真田昌幸でしたが、



真田昌幸、幸村は
絶対に、絶対に許さん!
家康は、「昌幸・幸村親子は絶対許すことは出来ない」強硬姿勢でした。



真田昌幸、幸村親子は
絶対に消えてもらう!
この姿勢は、家康の立場になって考えれば「当然の論理」でした。





殿!我が婿殿の
要望、聞いて下され!
ここで、真田信幸の岳父(がくふ、妻の父)であった「徳川の顔」本多忠勝が動きました。



・・・・・
徳川四天王の一人であり、徳川家最強の武将であった本多忠勝。
家康は、本多忠勝に「人生を救われたこと」が何度もありました。



場合によっては、
この忠勝・・・



婿殿と共に殿に逆らわざるを
得ないかも知れませぬ・・・



野戦か、籠城戦か、
殿は、この忠勝と戦うことになりますか・・・
本多忠勝が、「ここまで言った」説もありますが、不明です。
おそらく、「これに近いこと」を、忠勝は家康に「言った」と考えます。



・・・・・



まあ、良いわ!
紀州・九度山に配流だ!
その結果、「ギリギリ助命」となった昌幸と幸村。



有難き
幸せ・・・



この真田信幸、
信幸から信之に名前を変えまする・・・
真田信幸は、昌幸と同じ「幸」の字を懸念して、「信之」に名前を変えました。



真田は大嫌いだが、
信之は真面目で、大変良い!
「真面目キャラ」だった真田信之は、徳川家康にきちんと仕えました。
そして、徳川に忠節を誓い続け、「真田の家」を残すことに成功しました。



この真田信之、
徳川家のために尽くします・・・
そして、「徳川家康に睨まれ続けた」真田の家を、代々残すことに成功した信之。



なんとか、なんとか
真田の家を・・・
家康死後、豊臣派大名が多数消され、多数の家が取り潰しや大幅減封となりました。
当初の領土から少し移動となりましたが、松代・川中島付近で10万石を保ち続けた真田。



この真田の血を
後世に残すのだ・・・
「メンツ丸潰し」にした二代目将軍・秀忠に、潰されなかっただけでも卓越した政治力でした。
とにかく豪快な真田昌幸、真田幸村とは大きく違って、少しおとなしい雰囲気の真田信之。
相応の高い能力を持ち、その温厚ながら芯がある性格は、代々の真田家藩主が継ぎました。


この「真田信之の真田」が作った藩校・文武学校は、文字通り、文武両道で質実剛健な藩校でした。
次回は、文武学校内部の話です。

