前回は「本来「最高の結婚相手」の参議+陸軍卿〜西郷隆盛の従兄弟大山巌・「最悪の人物」からの咲子への求婚・浩の「己の生き様」防衛と「縁談破壊」の新たな決意〜」の話でした。

「薩賊の超中心人物」大山巌:幕末から維新への因縁「会津と薩摩」

山川浩た、大変な
ことになってしまった・・・



よりによって、
こんな事態になるとは・・・
15歳年下の可愛い妹・咲子の「結婚相手探し」に奔走していた兄・浩。
陸軍歩兵大佐という、政府の重職にあった浩は、自分の職場である陸軍を中心に探していました。
| 設置年 | 大学名 |
| 1868年 | 陸軍士官学校(前身の兵学校) |
| 1869年 | 海軍兵学校(前身の海軍操練所・海軍兵学寮) |
| 1877年 | 帝国大学(東京帝国大学) |
浩が、咲子の「結婚相手探し」を開始した1882年は、帝大が生まれて5年が経過していました。
そして、帝大よりも先んじて、真っ先に整備されたのが「陸軍と海軍の士官学校」でした。
海軍兵学校が設立された1869年には、明確に海軍が意識されていました。
その一方で、1882年の頃は、まだまだ陸海軍がそれほど明確に分化していないのに状況でした。
海軍は「陸軍の一部」の扱いであり、陸軍の方が圧倒的に強い立場であったのが当時でした。
「男女の結婚」は、当事者にとっては「相手の人間性」と「相性」が最も重要です。
ただし、これらはなかなか他人には分かりにくい面があります。
A.もともとそれなりの名家出身で将来有望なエリート
B.留学した咲子の生き方や考え方を尊重する理解ある人物
C.薩摩と長州は絶対に不可
そして、旧会津藩の名家であり柱石であり続けた浩にとっては、上の三つが最優先でした。
とは言っても、「三つを満たす人物」は、そうそう、というよりも「ほとんど」見当たりませんでした。



絶対に薩摩だけは、
除外しなければ・・・
こう考えていた浩。





ぜひ、山川咲子さんと
結婚したいごわす!
ここで「咲子の結婚相手最有力候補」として登場したのが、参議・陸軍卿 大山巌でした。
会津人にとって、「薩摩の中心人物」というよりも「薩賊の超中心人物」であった大山。


さらに、明確な「薩摩のボス」であった西郷隆盛の従兄弟である大山巌。
会津にとって、大山は「薩賊の中心の、また中心」であり、「薩賊の権化」のような存在でした。



この話は、
絶対に潰さねば・・・
血が逆流して、さらに逆流して、再度逆流するような激烈な思いをする浩でした。
西郷従道の想定外の仲裁「賊同士仲良く」:西南戦争の賊将・西郷隆盛





山川どん・・・
山川どんの気持ちは分かるごわす・・・



ここは、おいどんが
入って・・・
参議・陸軍卿であった大山巌は、当時「極官」とも呼べる存在でした。
1882年は、まだ大日本帝国に内閣総理大臣が存在しない時代でした。
当時は「朝廷式」の政治であり、太政大臣がトップでした。
そして、明治政府の実態は「参議と卿」が取り仕切っており、「参議の方が上」でした。
ここで、参議・農商務卿であった西郷従道が動き出しました。



浩さん、
来客です・・・



そうですか・・・
どなたですか?



西郷従道
参議・農商務卿です・・・



な、なに?!
西郷参議・農商務卿?!
この頃、山川浩が「大山巌問題」で懊悩していたのは、陸軍上層部に知れ渡っていました。



ま、まさか・・・
西郷参議・農商務卿が・・・
このタイミングで、西郷従道 参議・農商務卿が「乗り込んできた」こと。
その理由は、大人であれば誰でも理由がおよそ推測可能でした。



大山 参議・陸軍卿の従兄弟であり、
盟友である西郷参議・農商務卿・・・
西郷隆盛の従兄弟であった大山巌は、当然、西郷隆盛の弟である従道とも従兄弟でした。
そして、大山巌と西郷従道が「従兄弟を超えた関係」であることは周知の事実でした。



さては、咲子と
大山陸軍卿の・・・
頭脳明晰であった浩は、瞬時に全ての状況を理解できました。
西郷従道が「山川咲子と大山巌の縁談」に関して、浩を説得するために「乗り込んできた」ことが。



西郷参議とは
会いたくない・・・



だが、困った・・・
会わぬわけにも・・・



・・・・・
ひきつった表情でいた浩の元に、西郷従道がやってきました。



西郷従道
ごわす・・・



ど、どうも西郷卿、
ようこそ、お越しになりました・・・
おそらく、山川と西郷従道は、「それほど面識がなかった」と思われます。



・・・・・



・・・・・
会ったものの双方は無言となり、少々時間が経過しました。
そもそも、「訪問された側」である浩は「訪問の要件」を知ることが先です。



山川どん、
山川どんのお気持ち、よく分かるごわす・・・



幕末から維新に至るまで、
薩摩と会津では色々ござったごわす・・・



・・・・・
ここまで言って、西郷従道は、少し間を置きました。



・・・・・



我ら薩摩は、会津の方々の
生き様は実に立派と考えているごわす・・・



・・・・・



会津の方々の「武士の模範」のような
生き様には敬意を持っているごわす・・・



・・・・・



大山どんと貴殿の妹・咲子さんの件、
お聞き申した・・・



明治維新となり、
新たな明治となって今年で14年となり申した・・・



ここは、会津と薩摩で
仲良く出来ないでしょうか・・・



西郷従道卿の言わんとすることは、
分かる・・・



だが、なんとかして
断らねば・・・
なんとか「断る理由」を考える浩。



・・・・・
考えに考えた浩は、「ある名案」が思いつきました。



そうだ!我らは「賊」だから、
ふさわしくない、と答えよう!
そして、思い切って、浩は西郷従道に回答しました。



お気持ちは有り難いですが、
我らは「賊」ですから・・・



到底、大山参議・陸軍卿とは
釣り合いが取れません・・・



我らは、なんと言っても
「賊」ですから・・・
こう言った浩に対して、破顔して大笑いした西郷従道。



はっはっは!
おいどんも「賊」の一味ごわす!



「賊」となった西郷隆盛の
弟ごわす!


「明治維新の最大の功労者」であり「維新の顔」であった西郷隆盛。
西郷隆盛は、浩と西郷従道が話している1882年の5年前の1877年に、西南戦争を引き起こしました。
そして、その結果「維新最大の人物」であり「維新の顔」だった西郷隆盛は「賊」指定されたのでした。
| 西郷軍 | 政府軍 | |
| 兵力(人) | 約30,000名 | 約90,000名 |
| 戦死者(人) | 約6,800名 | 約6,400名 |
「たった5年前の未曾有の極大事件」であり、政府軍・薩軍合計13,000名以上もの戦死者が出ました。
西南戦争のことは、この当時、全ての明治政府関係者が明瞭に覚えていました。



おいどんも大山どんも
「賊」西郷隆盛の親族・・・



ならば、「賊」同士
仲良うしようではありませんか!



!!!!!!!
「とんでもない展開」に驚愕を超えて、何も言えなくなった浩でした。
次回は上記リンクです。


