前回は「「歴史を垣間見る」学び〜歴史の「貴重な証言者」である公文書・慌しかった昭和天皇の詔勅作成「詔勅最終版」への直接修正〜」の話でした。
戦後80年の節目の年の意味:最重要だった国体護持

昭和天皇耐エ難キヲ
耐エ・・・



忍ビ難キヲ
忍ビ・・・
今年2025年は、終戦80年の節目の年です。
「10年ごとの節目の年」に、どのような意味があるかは、様々な意見があります。
その一方で、「80年」という期間は「一定の時間が流れた」ことになり、大きな節目です。
例えば、終戦(敗戦)の年に生まれた人は、「ちょうど80歳」となります。
この視点から考えると、「80年」という年月は重く、我が国にとって「どん底からの復活」でした。
来年2026年では、中学受験〜大学受験で、終戦や戦争に関する問題が出題されやすいと考えます。
| 大日本帝国憲法 | 日本国憲法 | |
| 公布 | 1889年(戦前・明治時代) | 1946年(戦後・昭和時代) |
| 主権 | 天皇 | 国民 |
| 天皇 | 神聖不可侵の元首 | 日本国民統合の象徴 |
| 戦争 | 天皇が陸海軍を率いる | 戦争を放棄 |
| 軍隊 | 国民に兵役義務 | 交戦権否定 |
終戦時に、日本政府・軍部にとって最重要事項であったのは、「国体護持」でした。
本来、戦争であれば、「国民の生命が最重要」ですが、戦前は「天皇が神」だった日本。



まだまだ
我らは戦える!



連合軍に
降伏など、もってのほか!



本土決戦で、
米軍に大打撃を与え、挽回だ!
当時の大日本帝国は、「どこから見ても、絶対に敗北するしかない」状況でした。
その中、軍部、特に陸軍は降伏を拒否する姿勢を固め、本土決戦を主張していました。



だいたい、
降伏などしたら、天皇陛下はどうなる!
この「天皇陛下の未来」と「国体の護持」こそが、日本政府と軍部・大本営の最重要課題でした。
大日本帝国を統帥した昭和天皇:ポツダム宣言受諾の最終決定


今年9月15日まで、国立公文書館東京本館”終戦”展で「終戦の詔勅」が公開されました。
この「詔勅」とは、当時「大日本帝国の国家元首であり神」であった天皇による「意思表明」です。
戦前は、「天皇陛下は神」と教育され続け、本当に国民の大多数は、



我らが昭和天皇は、
神であり、大元帥であられる・・・


現代の感覚では「考えられない」状況ですが、当時の大日本帝国において、「天皇は全て」でした。
天皇が「政府の上」にあると同時に、「軍部・大本営の上」にありました。
当時の帝国陸海軍においては、原則として「大将がトップ」であり「元帥は極めて稀」でした。
そして、昭和天皇は「大元帥」という立場であり、全てを超越した存在でした。
大日本帝国憲法においては、首相、参謀総長、軍令部総長などは「天皇を輔弼する」立場でした。
そのため、現代のように「首相が何かを決定」することは不可能であり、



〜の件に関して、
〜と決定させて頂きたいのですが・・・



・・・・・



分かった。
そのようにせよ。



はっ・・・
このように、全ての重要事項において、「天皇の裁可」が必要でした。
「裁可」とは、「許可」と同様の意味になりますが、「目上の立場から許可する・認める」意味です。
昭和天皇は、かなり頭脳が明晰であり、「ただ許可していた」のではありませんでした。
時には、



その件は、この間言っていた事と
違うではないか!
しっかりと「過去の大事な件」を理解・覚えており、このように指摘することもあった昭和天皇。



ここは、
ポツダム宣言を受け入れるのが・・・



朕の
意思である・・・
そして、終戦(敗戦)を受け入れることを「国家のトップ」として決定した昭和天皇。


そして、マッカーサーGHQ最高司令官として、戦後すぐ日本に乗り込んできました。



俺がJapan(日本)を
統治するのだ!
マッカーサーは第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)で、日本の陸海軍と戦い続けた将軍でした。





マッカーサー元帥を
訪問しよう・・・
「降伏する側のトップ」となった昭和天皇は、自らマッカーサーに面会するために出向きました。
1945年9月27日のことでした。
ポツダム宣言受諾から、一月半ほど経過していました。

