前回は「「近代的だった新政府軍」vs「旧体制的だった徳川幕府」の図式と事実〜長崎にオランダ国旗を立て続けた日本・オランダから日本への好意〜」の話でした。
「鎖国」の国是と徳川幕府の対外政策:当初なかった「鎖国」の言葉

世界の歴史においても、「極めて稀」であった鎖国という政策。
長崎の出島を「対外関係の窓口」として、島国日本を「海から閉鎖」したのが鎖国政策でした。
徳川幕府が日本の盟主であり、外国から見れば「徳川将軍=皇帝であった」のが江戸時代です。
そして、徳川将軍=徳川皇帝率いる幕府は、鎖国を堅持しました。


今年から、
鎖国令を発する!
日本史では、「1639年に徳川家光が鎖国を開始」と習います。
実は、「鎖国」という言葉を、将軍・家光は用いていませんでした。



えっ?
家光が「鎖国」って言ったんじゃないの?



家光が、鎖国を
命令したのではないの?
実は、家光や徳川幕府は当初、「鎖国」という言葉を使わずに、政策を進めました。
1.長崎・出島:徳川幕府の公式窓口(オランダ・中国)
2.対馬・宗氏:徳川幕府が公認・間接的関与(朝鮮)
3.蝦夷・松前氏:徳川幕府が半公認・間接的関与(蝦夷及びアイヌ)
4.薩摩・島津氏:徳川幕府は非公認・事実上黙認(琉球・中国・東南アジア)
中学入試において、比較的多く出題される傾向が強い「鎖国に関する」問題。
鎖国に関する問題は、昔から繰り返し、何度も出題され続けています。
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上記の(い)の問題は、最もスタンダードな回答が「徳川家康→徳川家光」です。
上の問題に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
鎖国とは「国を鎖(と)ざす」という意味であり、大変極端な政策でした。
オランダ・中国・朝鮮など、非常に限られた国家のみ「正式にお付き合い」する政策だった鎖国。



海外との正式窓口は、
長崎!



そして、基本的に
諸藩は、海外と接してはならぬ!



海外との付き合いは、
全て徳川将軍が差配する!
海外との窓口を「原則として長崎のみ」としたのが、家光でした。
海外交流が盛んだった戦国期:「天下人気分」秀吉のバテレン追放令


実は、戦国時代は海外との交流が極めて活発に行われた時代でした。
当時、「南蛮」と呼ばれたポルトガルやスペインなどの欧州国家と、積極的に交流したのが信長でした。
当時は「日本には存在しなかった」地球儀を見た信長は、



「地球は丸い」と
申すか・・・



はい・・・私たちは、
はるばる船でJapanに来ました・・・



この大きさが、
我が国か・・・



そして、汝たちは、
この距離を船で来たのか・・・



はい・・・とても遠いので、
大変でしたが、ここまで参りました・・・



面白いのう・・・
我が国を統一したら・・・



海外ともっと接してゆき、
世界に出て行きたいのう・・・
飛び抜けて革新的発想を持っていた信長は、天下統一後の「信長流の国家像」を描いていました。


ところが、本能寺の変によって、「信長流の国家」は一気にこの世から消えてしまいました。



海外との交流は、
貿易で銭が儲かるなら良いな・・・
類稀なる経済感覚と軍事センスで、日本を統一した秀吉。
ところが、この頃、猛烈な勢いで勢力を伸ばし始めた「キリスト教徒の存在」に目を光らせ始めました。



な、何?!
キリシタン大名が・・・



キリシタン大名が、
我が国の土地をキリシタンに渡している、だと?!
長崎周辺の有馬氏などの「キリシタン大名」は、キリスト教宣教師たちに教会及び土地を譲渡していました。
「キリスト教保護」のためであり、それは「宣教師達の望み」でした。



私たちも、この国(日本)に
基盤となる土地が欲しい・・・
やはり「住んでいる側」からすれば、「基盤となる土地」が欲しいのが当然でした。
それは、海外から移住し、長い間日本で暮らしていた人々の本音でした。
ところが、「新たな皇帝」になろうとしている秀吉から見れば、



バカめが!
そんなことでは、我が国が外国に占領されてしまう!



おのれ、宣教師達めが!
お前達は消えろ!
激怒した秀吉は、1587年に「バテレン追放令」を出しました。



考えてみれば、
1587年って、秀吉の天下統一前だね・・・
1587年は、秀吉が九州征伐を行い、島津氏を下した頃でした。
現代の日本の国家像から見れば、「関東(北条)と東北(伊達)がいる」ので「天下統一前」です。
ところが、当時の日本の国家像は「京・山城中心」であり、中国や朝鮮と近い西国が先進地域でした。





ということは、当時は
関東より九州の方が進んでいたの?
特に九州は、昔から中国大陸との接点が極めて強かったため、かなり進んだ文明を持っていました。
徳川家康を臣従させ、島津氏を下した時点で「天下人気分」だった秀吉は、



私が、我が国・日本の
新たなボスなのだ!



それなのに、勝手に
外国に土地を渡すな!
秀吉から見れば、宣教師達が「国家の土地を蚕食している」ように考えたのでしょう。
その一方で、「経済の力」を根幹から知り尽くしていた秀吉は、



まあ、貿易ならば
良いがな・・・



鉄砲や武器なども
入ってくるし、お金も儲かるからな・・・
貿易はある程度認めましたが、基本的に海外との交流には「後ろ向き」の姿勢を堅持しました。
信長によって、「海外との窓口」が一気に広がる機運を見せていた日本。
ところが「後継者」秀吉によって、その「海外との窓口」は一気に潰れてしまいました。