超親日派だったヘンリー・スティムソン〜大いなる感受性と信念・原爆投下地・京都の除外・日本人の精神の故郷・京都=Kyoto〜|ヘンリー・スティムソン3・人物像・性格

前回は「「京都原爆案」を全力で潰したヘンリー・スティムソン〜愛する京都・自らの眼力に大いなる自信を持つ・ルーズベルトとマッカーサーの険悪な仲・信念貫く姿勢・マッカーサーを強く推薦〜」の話でした。

ヘンリー・スティムソン(Wikipedia)
目次

超親日派だったヘンリー・スティムソン

金閣寺(新教育紀行)

実は、ヘンリー・スティムソンは超親日派でした。

ハネムーンを含めて、二回来日しています。

中でも、京都を訪れたヘンリー・スティムソンは京都に感激します。

Kyotoという街は、
雰囲気も街並も非常に美しい・・・

Kyotoは、
実に素晴らしい街だ・・・

わが合衆国は素晴らしい国だ・・・
だが、合衆国にはKyotoのような街は存在しない・・・

新教育紀行
ロンドン(新教育紀行)

パリ・ロンドン・フィレンツェなどの街を訪れて、「素敵な街」と誰しも思います。

スティムソンは、Kyotoに「素敵」「素晴らしい」を超える特別な感慨を感じました。

私は、Kyotoが本当に好きだ!
素晴らしい文化都市だ。

この美しき街は、
日本の魂の故郷だろう・・・

KyotoはParisやLondonにも
引けを取らん!

いや、むしろKyotoの方が
ParisやLondonより素晴らしい!

日本人のみならず、
世界中の人間が大事にすべき場所だ!

二度来日したヘンリー・スティムソンは、京都に非常に大きな感銘を受けます。

そもそも、仕事でもなく二度も来日していること。

これは異例であり、すごいことです。

好きな国でも一度行けば、なんとなく満足してしまいます。

「同じ国」にはなかなか二度は行かないもので、増して「同じ都市・街」に二度行くことはそうそうありません。

しかも、今よりも海外旅行が時間もコストも遥かに掛かった当時と現代では全く状況が異なります。

このことを考慮すると、ヘンリー・スティムソンが二度も京都を訪れたことは驚くべきことです。

日本人の精神の故郷・京都=Kyoto

新教育紀行
京が中心・重心の日本列島(新教育紀行)

スティムソンが思った通り、Kyotoは日本人にとって非常に特殊な都市です。

「日本人の心の故郷」あるいは「日本人の精神の居所」とも言えます。

昔の日本の国名は、京都を中心に展開していたのが現実でした。

そもそも、明治新政府が江戸から東京に名前を変更しましたが、「の京」という意味です。

その意味では、東京は「京都の弟的存在」と言えなくもないのです。

満州国(Wikipedia)

さらに、第二次世界大戦中、日本は中国北東部に満州国をつくり、傀儡政権を樹立しました。

現代日本の「大人しい政治」を考えると「傀儡政権樹立」は考えにくい事実です。

ところが、戦前の「大日本帝国」だった時の日本は、こういうことも易々やってのけたのです。

「日本の暗部」とも言えるこの「傀儡政権・満州」樹立の歴史に関しては、麻布中が出題しています。

この満州の首都ともいうべき都市は、「新京」と名付けられました。

これは「しい」という意味です。

満州が中国の手に戻り、新京という名前は消えました.

とにかく日本人にとって、「京は非常に特別な都市」です。

大いなる感受性と信念:原爆投下地・京都の除外

新教育紀行
銀閣寺(新教育紀行)

日本人にとって、かくも馴染み深いKyoto。

スティムソンは、ここまで知ってはいなかったでしょう。

Kyotoは、
全てが素晴らしい!

京都の街を大いに気に入ったスティムソンに対しては、日本人として嬉しい気持ちになります。

おそらくスティムソンにとっては、Kyotoの日本における歴史も大事だったでしょう。

私はKyotoが
とても好きだ!

彼なりに「大いに感じた何か」があったのでしょう。

日本人ならば、誰しも「Kyotoは素晴らしい」と感じます。

日本人とは感性が異なり「自国」でもない、米国民のスティムソンが非常に感激したこと。

それは、「理屈を超えた」何かを感じるところがあったのでしょう。

彼が大いなる感受性を持っていたのでしょう。

Kyoto大好きなスティムソンは、第二次世界大戦末期にKyotoと非常に大きな関わりを持ちます。

新教育紀行
1945年敗戦時の東京(Wikipedia)

戦争末期に、米国は開発したばかりの原爆を日本へ投下することを決定しました。

Japanに原爆を
落とすのだ!

この時、日本は東京はじめとする都市と言う都市が大空襲を受け、壊滅状態でした。

そして、三国軍事同盟を締結したドイツ・イタリアが降伏して、「日本だけ」となっていました。

この状況で、日本がまだ「凄まじいパワーを持っていた」わけもなく、誰がみても「日本敗北」は決定していました。

その意味では、「日本に原爆投下」する必要はなかったのが現実です。

原爆を投下するまでもなく、「日本が米英始めとする連合軍に降伏」することは明らかでした。

ところが、米国には米国なりの思惑があり、

Japanへ原爆を落とすことを
決定!

となりました。

戦争しているとはいえ、
さすがにEmperor(天皇)のいる首都Tokyoへの投下は・・・

それは、
「やってはならない」禁じ手だろう・・・

日本の首都であり、EmperorのいるTokyoは民主的観点から除外となりました。

もし、原爆を開発し投下したのがソ連であったら、迷わず彼らは「東京に原爆投下」したでしょう。

この意味では、「相手が米国で良かった」面があります。

そして、

Kyoto(京都)に原爆を
落としてやれ!

なんと、「京都に原爆投下」することを前線の米軍の将軍が要請しました。

何っ!
Kyotoをどういう都市だと思っているのだ!

Kyotoは私の政治生命を賭けても、
守り抜いて見せよう!

新教育紀行
広島への原爆投下:1945年8月6日(Wikipedia)

そして、広島・長崎に原爆投下となりました。

Kyotoは守ったが、
これが果たして良いことだったのかどうか・・・

おそらく、京都を愛するスティムソンは「日本への原爆投下」に対しては、複雑な心境だったでしょう。

2023年の今の78年前、スティムソンの頑張りによって、日本の古都は「灰燼に帰す」ことを免れたのでした。

新教育紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次