挫折を糧に志を持った後藤新平青年〜賊軍から復活目指す姿勢・仙台藩から胆沢県へ・新たな時代の幕開け・勝海舟が極めて高く評価した異才横井小楠・初代熊本藩主細川忠興と明智光秀〜|後藤新平12・青年時代・人物像

前回は「後藤新平の人生で最も辛かった時期〜少年時代に味わった「賊の苦しみ」・「絶対的な存在」だった天皇陛下・徳川慶喜への致命傷となった「朝敵」〜」の話でした。

後藤 新平(Wikipedia)
目次

挫折を糧に志を持った後藤新平青年:賊軍から復活目指す姿勢

戦国大名 伊達政宗(Wikipedia)

威風堂々とした仙台藩という「超名藩の武家」に生まれた後藤新平少年。

そのまま、徳川幕府の時代が続けば、仙台藩に尽くした人物となったでしょう。

急転直下「朝敵=賊」になった後藤少年は、大いなる挫折を味わいます。

11歳の小学校5年生にとっては、あまりにも辛い事態でした。

悲しい・・・

本当に
辛い・・・

実はこの後に本人の性格もあって、更なる挫折を経験する後藤新平。

この後、西郷隆盛に匹敵する更なる大きな挫折を経験します。

薩摩藩士 西郷隆盛(国立国会図書館)

おいどんは、二度も
島流しになったごわす!

さらに、何度か
本当に死にかけたごわす!

時代や価値観によりますが、この「挫折度No.1」とも言える西郷に匹敵する挫折をこれからする後藤。

それでも後に後藤は、

この時(賊軍の汚名)ほど、辛いことは、
なかった・・・

本当に、本当に
辛かった・・・

と振り返っています。

賊と
なったが・・・・・

なんとか
頑張ろう!

それしか、
それしかない!

前向きに頑張ってみようとします。

仙台藩から胆沢県へ:新たな時代の幕開け

安場 保和 胆沢県大惨事(副知事)(Wikipedia)

前向きになった後藤は少年から青年になりました。

頑張って
新たな道を切り開くぞ!

廃藩置県となり、仙台藩は「胆沢県」となります。

そこに、後藤の人生を変える人物がやってきます。

新たに仙台藩を治める行政官としてやってきたのは、安場保和 胆沢県大惨事(副知事)でした。

私が胆沢県大惨事となった
安場保和です・・・

この安場は、後藤にとって「終生忘れえぬ人」となります。

胆沢県の新たな
ボスは安場さんと言う人か・・・

非常に進歩的な安場は、熊本藩出身で高名な横井小楠の門下生でした。

勝海舟が極めて高く評価した異才・横井小楠:初代熊本藩主・細川忠興と明智光秀

参与 横井小楠(Wikipedia)

幕末維新期には、あまり大きな活動をしなかった熊本藩。

朝廷にも幕府にも重んじられてきた細川家。

新教育紀行
肥後熊本藩初代藩主 細川忠興(WIkipedia)

熊本藩の藩祖は武将としてだけではなく、茶人としても有名なインテリ派の細川忠興です。

細川忠興はかなり有名な武将ですが、その理由はいくつかあります。

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戦国武将 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

僕の奥さんは
明智光秀の三女・玉だ!

細川忠興の妻は、あの明智光秀の娘でした。

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戦国武将 細川藤孝(幽斎)(Wikipedia)

それは、明智光秀と細川忠興の父である細川藤孝(幽斎)が「極めて親しい仲」だったからです。

明智殿は、
昔は私の部下だったが・・・

今は上司みたいな
存在になった・・・

でも、我が細川と明智は
すごく仲が良いのだ!

足利幕府において名家「細川」を継いでいた細川藤孝は、当初、足利義昭の配下で非常に尽力しました。

大変な教養人であった細川藤孝と、似た雰囲気であった明智光秀は極めて相性が良かったのでした。

さらに、「極めて美しい女性」だった明智光秀の三女・玉。

このこともあり、結婚した忠興は大変愛していました。

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本能寺の変(Wikipedia)

信長を
倒すのだ!

大きな転機が起きたのは「本能寺の変」でした。

細川親子は
絶対に私の味方になる!

なんと言っても、藤孝殿と私は長年の友で、
娘と忠興は結婚しているからな!

と考えた明智光秀でしたが、

明智光秀では
この後、天下は担えん・・・

光秀は、この後、秀吉・勝家・家康の
誰かにやられるだろう・・・

私は隠居して幽斎という
名前にする・・・

忠興は、光秀の子・玉と
結婚しているし、好きにするが良い・・・

明智に味方するのか、どうするかを迫られた「新当主」細川忠興。

私も同じく三斎と名前を
変えて、明智には与しません!

そして、大好きだった奥さんの玉を一時的に「幽閉(ある場所に隔離)」して、反明智を貫きました。

光秀敗死後は、豊臣政権に仕え、継いで徳川政権に仕えた細川家。

忠興もかなりの武将でしたが、背後には常に細川幽斎の存在がありました。

細川幽斎殿は、足利・織田・豊臣・徳川の
四つの政権を特等席で乗り切った!

と言われ、極めて存在感が強かったのが細川家でした。

そのため、肥後細川家は伊達仙台藩や島津薩摩藩同様に「別格」として扱われ続けました。

そして、江戸期を通じて「領地替え」をされず、54万石という巨大な藩を運営し続けます。

幕末、藩としては大人しかった熊本藩ですが、横井小楠という重要な人物を輩出します。

大変な秀才だった横井小楠。

彼の名前は、楠木正行(小楠公:楠木正成の息子)にあやかっています。

山口多聞は、「楠木正成の幼名の多聞丸」からでしたが、楠木正成の影響の大きさがわかります。

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幕末の各藩の姿勢:図解幕末史(インフォレスト)

そして、熊本藩で私塾を開いた横井小楠。

参議・海軍卿 勝海舟(Wikipedia)

幕末に勝海舟や坂本龍馬と会って、様々議論します。

多くの人物から、その学識の高さ・未来を見通す力で絶賛されます。

中でも、横井小楠を非常に買っていた勝海舟。

天下で
恐ろしい人物が二人・・・

それは西郷隆盛と
横井小楠!

なんと、あの西郷隆盛と同格に評価されます。

西郷隆盛(国立国会図書館)

この横井小楠門下生の安場との出会いにより、後藤少年は運命の扉を開きます。

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